
「マルセイバタ」というバターが、かつて実在した。
北海道で 初めて商品化されたバター で、明治期に十勝で作られ、東京の上野で売られていた。
そして、わずか13年で姿を消した。
その13年に、何が起きたのか。
公式の史料を辿ると、第一次世界大戦が深く関わっていることが見えてくる。
宮崎県椎葉村でバターサンド専門店「菓te-ri(カテーリ)」をやっています、椎葉です。
年間24万個。これくらい焼いていると、菓子業界の成功例だけじゃなくて、消えていったブランドの話のほうに、ついつい目が行くようになる。
今日は、現在のマルセイバターサンドのルーツである「マルセイバタ」の、数奇な13年の歴史を辿ります。

🎯 3秒で分かる「マルセイバタ」早見表
- 製造元:晩成社(依田勉三が率いた開拓結社)
- 生産地:十勝の生花苗(おいかまない)牧場(現・大樹町)
- 製造開始:明治38年(1905年)─ 北海道で初めてバターを商品化
- 販売開始:明治39年(1906年)─ 初年の収入602円弱
- 製造停止:大正7年(1918年)─ 第一次世界大戦の好景気で採算割れ
- 命の長さ:わずか13年
明治34年、依田勉三が乳業に目をつける
晩成社は、もともと農業で十勝開拓を進める計画だった。
明治16年(1883年)に帯広に入植してからの数年は、農業の失敗の連続だった。
天候不順、イナゴの大群、ウサギ・ネズミ・鳥の被害。13戸あった移民は、数年で3戸まで減った。
農業の困難を目の当たりにした依田勉三は、次に 牧場経営 に賭ける。
生花苗(とうべりぐん・とうべりむら・おいかまない/現在の大樹町)に1万ヘクタールの土地を得て、牛馬の飼育を始めた。
北海道の学芸員ネットワーク(hk-curators.jp)の記事には、明治34年(1901年)頃の依田勉三の日記から、彼が乳業に強い関心を持ち始めていた様子が引用されている。
- 2月:人を雇って搾乳人の研修を積ませる
- 9月〜10月:函館でバターを購入したり、搾乳機の見学をする
当時の日本で、本州にバターという商品を売る、というのは新しい挑戦だった。
ヨーロッパでは伝統的な食品でも、明治の日本では「西洋のハイカラな嗜好品」の位置づけ。
新しい市場を、十勝という遠い地から狙うという発想自体が、相当に攻めている。
1905年、北海道で初のバター商品化
『晩成社営業報告』によれば、流れはこうなる。
- 明治37年(1904年):バター製造のための器具を用意
- 明治38年(1905年):バターの製造技師を雇い、生産をスタート。北海道で初めてのバター商品化
- 明治39年(1906年):販売開始。初年の収入は602円弱
松崎町公式の依田勉三紹介ページでも、「依田勉三(松崎町出身)の興した晩成社(依田牧場)が1905年(明治38年)に北海道で初めて商品化したバター」と明記されている。
これが、後にマルセイバターサンドの「マルセイ」として復刻される、商標 「マルセイバタ」 だ。
商標は、晩成社の「成」の字を、○で囲んだもの。
「晩成」は、「大器晩成」にちなんでいる。
たとえどれだけ時間がかかっても、必ず成功させる、という意気込みが込められていた。
東京の上野で売られていた「マルセイバタ」
マルセイバタの面白いところは、十勝で作って、東京で売っていた ことだ。
十勝は、明治30年代から入植者が増えて人口も増えていたが、バターという西洋の嗜好品を売れるほどの市場はまだなかった。
そこで、晩成社は最初から 東京の富裕層 をターゲットにした。
販売拠点は、東京市下谷区仲御徒士町四丁目(現在の上野駅南口付近)の 広屋商店。
この店は、各種の酒、ソース、カレー粉、紅茶、ジャムなど、西洋食料雑貨を広く揃えていた、当時としてはハイカラなお店だ。
これを支えていたのが、依田家の人脈。
依田勉三の兄・佐二平は、第一回衆議院議員 に選出された政治家。養蚕業や海運業にも携わり、産業組合の要職を歴任していた。
弟・善吾は東京在住で、勉三と頻繁に手紙をやり取りし、販売戦略を一緒に練っていた。
「良いものを作ったから売れた」というシンプルな物語ではなく、政治家人脈と緻密な販売戦略 によって市場が開拓されていた、ということだ。
1ポンド缶という、復刻されたパッケージ
マルセイバタの容器は、1ポンド缶だった。
1ポンドは、グラムに換算すると453.59g。
帯広百年記念館には、「マルセイバタ」のラベルが76枚所蔵されている。
このラベルがもとになって、現代のマルセイバターサンドの包装紙のデザインが生まれた。
ラベルの寸法は、縦5.8cm × 横31.4cm(実寸はもう少し長く、糊しろを除いた数字)。
これを巻くと、高さ5.8cm × 直径10cmの円柱になる。
体積を計算すると、5×5×3.14×5.8 = 455.3cm³。
1ポンド(453.59cm³)の水の体積と、ほぼ一致する。
つまり、残されたラベルから、缶のサイズが逆算できる。
学芸員はその寸法を再現して、当時の缶を工作で再現している。
今、店頭でマルセイバターサンドを見たときに目に入る赤い包装紙のデザインは、こうした史料考証の上に成り立っている。
ただのレトロ風デザインではなくて、実物の1ポンド缶のラベルの復刻 だ。

1918年、大戦景気で消滅
マルセイバタの製造は、大正7年(1918年) を最後に停止された。
『晩成社営業報告書』には、停止の理由がこう記録されている。
本年ハ手不足且賃金ノ昂騰加フルニ飼料ノ暴騰為メニ製造ヲ見合ス強テ製造セントセバ益ナク損ナルガ如シ故ニ製造ヲ中止ス
現代語にすると、こうなる。
- 人手が足りない
- 賃金が高騰している
- そのうえ飼料の価格まで暴騰している
- 採算が取れない(無理に作っても赤字になる)
- だから製造を中止する
この異常な物価高は、第一次世界大戦の大戦景気 によるものだ。
第一次世界大戦が始まると、工業生産の需要が高まり、労働者は工場のある都市部に集中した。穀物をはじめとして諸物価も何倍もの値に高騰した。
大正7年は、まさにその大戦景気のまっただ中。
造船業や運送業で大儲けした 「船成金」、十勝では農産物で儲けた 「豆成金」「でんぷん成金」 が登場した時代だ。
その一方で、都市から遠い十勝・生花苗で、飼料を買って牛を育て、バターを生産していた晩成社は、逆に大戦景気のあおりを受けて、製造をやめざるをえなかった。
1905年から1918年。マルセイバタの命は、わずか13年で終わった。
59年後、別の会社が「マルセイ」を復活させる
消えたマルセイバタが、再び世に出るのは、59年後の1977年。
帯広千秋庵(1933年創業)が、社名を 「六花亭」 に変更したのが、1977年5月14日。
同じ日に、社名変更記念菓子として 「マルセイバターサンド」 が発売される。
六花亭公式の商品ページには、こう記されている。
菓名の由来は、十勝開拓の祖・依田勉三翁が率いた晩成社により十勝で最初に作られたバター「マルセイバタ」にちなみ、包装紙もそのラベルを模しています。
1918年に消えたマルセイバタは、商品としては復活しなかった。
ただ、その名前と包装紙だけが、菓子という形で生き続けることになった。
【職人の一言】消えたブランドが、別の形で続くということ
菓子の世界では、毎年たくさんの商品が生まれて、消えていく。
マルセイバタは、わずか13年で消えたブランドだ。
それでも、ラベルが76枚保管されて、寸法が逆算されて、別の会社の代表菓子の包装紙として復刻された。
これは、奇跡というより、残すべきものは残るように動いた人たちがいた、ということだと思う。
帯広百年記念館の学芸員、史料を寄贈した方々、そして六花亭。
1人ひとりが少しずつ手を貸して、消えたはずのブランドが、別の形で続いている。
次にマルセイバターサンドを開けるとき、その赤い包装紙の中に、1905年から1918年までの13年と、1918年から1977年までの59年 があることを、ちょっと思い出してみてほしい。
たぶん、いつもと違う味がする。
出典・参考(公式情報源)
- 集まれ!北海道の学芸員「『マルセイバタ』を売り込め!——十勝から東京へ——」(帯広百年記念館蔵史料に基づく学芸員署名コラム)(http://www.hk-curators.jp/archives/1108)
- 松崎町公式「依田勉三」(https://www.town.matsuzaki.shizuoka.jp/docs/2016020300172/)
- 六花亭公式「マルセイバターサンド5個入」商品詳細
- 六花亭公式「沿革」
- かわたびほっかいどう「十勝川の治水の歴史-1 十勝の先駆者 依田勉三を苦しめた十勝川」
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1918年の「マルセイバタ」を継承するブランドとして六花亭が1977年に発売した「マルセイバターサンド」は、いまも北海道土産の王道として愛されています。
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